私たちが考えなければいけない災害の最後は津波(つなみ)です。戦後の災害で最も多くの死者・行方不明者数を出したのは東日本大震災で、その多くは津波(つなみ)によるものです。
これは自然災害による死者・行方不明者数の推移(すいい)のグラフです。
東日本大震災で犠牲(ぎせい)になられた方の9割以上が、津波(つなみ)によって亡くなっています。
自分たちが住んでいるところは海に近くないから津波(つなみ)のことはあまりピンと来ないんだよね。
でも、たまたま海の近くに行っている時に被災(ひさい)するかもしれないからね。
東日本大震災の時に、津波(つなみ)が来ても被害(ひがい)が少なかったところの特徴(とくちょう)は、過去に津波(つなみ)が起きたときに、しっかりと対策(たいさく)をしているところが多いんですよ。
過去の教訓に学んだということね。
そう。過去の災害の体験や教訓を継承(けいしょう)していくことがとても大切なの。下のような看板(かんばん)も過去の教訓を継承(けいしょう)するものです。
津波に対しては、過去の教訓に学んで対策をすることが大切です。そのような対策をすることで、東日本大震災の時に被害を最小限に抑えた二つの地域を紹介します。
まずは、岩手県大船渡市の吉浜集落。
東日本大震災の津波は吉浜海岸の背後に広がる水田を襲いましたが、海抜16~20メートルの県道250号沿いに集まる住家のほとんどが被害を免れ、全半壊4戸、犠牲者1人にとどまりました。
今回浸水した水田地帯は、1896(明治29)年の明治三陸大津波の時に集落の中心があり、被害が集中した場所でした。死者・行方不明者は人口の約2割に上ったと言われています。そこで村長主導で全戸が高台に移転しました。これは被災者自身が土地を見つけ、費用を賄う「自力移転」でした。
また、1933(昭和8)年の昭和三陸大津波でも被害を出しましたが、行政が高台移転地を造成し、今の高台集落が形成されました。今回、被害を少なかった最大の原因は、「低地では農業、漁業を営み、住居は津波が来ない場所に」という方針。過去の大津波に学び、仕事が楽にできる低地の生活を再び選ぶことはなかったことです。
もう一つは、岩手県下閉伊郡普代村。
東日本大震災の津波による死者・行方不明者は1人でした。明治と昭和の津波で合計439人の犠牲者を出し、防潮堤を作ることになったのですが、当時の村長が批判もあったものの、「15メートル以上の防潮堤を」と言って譲らなかったそうです。それは、「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えがあったからでした。
今回の津波で、同じ岩手県の宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出しました。普代村は、先人の津波防災にかける熱意が村民を救ったと言えます。