災害について学ぶことは、命を守ること

■災害が起きることを前提にいかに被害を減らすか

平成という時代は、地震・水害・火山・竜巻・雪害と様々な自然災害を繰り返し経験しました。中でも1995年1月の阪神・淡路大震災、そして2011年3月の東日本大震災は 永遠に忘れることのない日本の歴史に不幸な出来事として語り継がれることとなりました。

この二つの大震災は地震の主な要因とされる直下型地震(活断層型)と海溝型地震(プレート型)によって起きました。
地面からの強い衝撃で突き上げられたような直下型地震の阪神・淡路大震災は、これまでの「防災」という概念を大きく変える切っ掛けにもなりました。近代都市を襲ったこの地震は木造の家屋はいとも簡単に倒壊し、頑丈と思われていた高速道路は崩落、そして多くのビルが倒れた姿を目の当たりにし、自然に対する人間の無力さを改めて見せつけられたのです。

このような大地震で被害を完全に防ぐ!ということは不可能であるという考えに立ち、であるならば災害による被害を防ぐことではなく、被害を減らす「減災」という新たな考え方が生まれました。重厚に強く構えるより、災害の特性や的確情報を巧みに活用し、無理に逆らわずに災害を受け入れ、被害を最小限に留める備え方に変わってきたのです。

■対照的だった二つの学校の対応

そして、長い揺れが続き、その後の大津波によって東北の太平洋岸を中心に大きな被害をもたらした海溝型地震の東日本大震災は、さらに多くの教訓を私たちに残してくれました。
中でも児童74名と、教職員10名の命を奪った宮城県石巻市の大川小学校の惨事は、教師を含めた大人たちの災害に対する無知や希薄さが起こした辛く悲しい出来事であったと考えられます。

地震や津波に対する平時からの訓練や学校の建つ周辺環境を理解していれば児童全員が助かりました。教師や地域住民の普段のちょっとした備えを怠った結果の不幸な出来事だったと言えます。それだけに強い無念さを感じます。

大川小学校

一方で児童全員が助かった小学校もあります。宮城県最南端にある山元町の中浜小学校です。
地震が起きたとき小学校には多くの児童がいました。校長は津波の到達時間と避難先である内陸部の中学校までの時間をすぐに計算し、児童の足では移動できないと判断。地域住民も含め児童全員が校舎の一番高いところへの避難を決め児童教員共に全員の命が助かりました。

この地震の起きる2日前にも大きな地震があり、教員はその時にも学校に備えてある避難計画書にしっかりと目を通し、災害時の対応を確認していたことも大いに役に立ちました。

中浜小学校

この二つの小学校の津波への対応の違いが示した通り、災害に対する日ごろからの知識や理解を深めることは、大規模災害時に大切な命を守ることに直接つながります。

何気ない普段の生活の中で、家の耐震のこと、家の中の家具や電化製品のこと、家のある地域のことなどを意識しながら暮らすことはとても大切なことです。繰り返しになりますが、災害に対する基本的な知識や備えが、大切な人の命を守ることに必ずつながります。

■災害ボランティアも日常の防災に担い手に

これらの大震災では多くの行政機能が麻痺し、それに代わり一般市民による支援活動が活発に行われました。
その目覚しい活躍から1995年は、「日本のボランティア元年」とも称され、その後のNPO法(特定非営利活動法人促進法)の成立に大きな原動力になりました。災害ボランティアによる支援活動はその後の大規模災害でも途絶えることなく、成長しながら現在に至っています。

しかし、非日常的な災害現場で活躍したボランティアも、日常的な地域の防災の取り組みに参加しているかというと、まだまだと言えます。災害現場での経験知を、もっと日常の防災・減災活動の中で発信していってもらいたいです。


黒澤 司(くろさわ つかさ)
1989年から日本財団に在籍。一貫して公益法人・NPO・ボランティア団体への支援活動の事業に携わる。その間、多くの団体の立ち上げを支援、その育成等に関わる。1995年に発生した阪神・淡路大震災以降は国内外の災害救援ボランティアの支援活動を行いながら災害ボランティアのネットワークづくり及び技術力向上などに携わる。その後も多くの災害被災地で支援活動に関わる。2008年日本財団を退職し、宮城県にて林業に従事。

東日本大震災当日夜から救援活動に従事し、のち日本財団に復職。
東日本大震災では現地支援センター責任者として4年間ボランティアを指導・指揮。
現在は熊本地震現地支援担当として復興支援活動に従事。
技術系災害ボランティアネットワークDRT-JAPAN主宰